長岡城落城後、同盟軍加茂に集結、米沢藩庄内藩も参戦

同盟軍加茂に集結会津戊辰戦争(参-二)

北越戊辰戦争長岡城落城

長岡城落城後、同盟軍加茂に集結

米沢藩庄内藩も参戦

〈同盟軍、見附・栃尾から加茂へ〉

五月十一日(6月30日)同盟軍の庄内藩は奥羽鎮撫総督軍との対決情況の中、越後への出陣をする。先鋒の石原友太夫は会津・水原陣屋に至り、会津藩西郷勇左衛門、秋月悌次郎と軍議、庄内藩の出陣先を海岸沿線の弥彦方面と決めた。会津藩佐久間平助は庄内藩本隊の加治村へ石原友太夫と共に訪ね、さらなる出兵を願うため庄内へ出立した。

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また、米沢藩、会津藩は加茂に向け出陣となった。五月十七日の事である。しかし、二日後には長岡城が西軍に侵略され、滞陣となったのである。さらに会津藩青龍三番士中組(木本慎吾隊長)は十八日に大洪水で田畑、家が水に覆われている惨状をみて、進軍の難行を知る。米沢藩は新発田城下から水原に戻り、会津・庄内藩らと軍議を開いて上記の出陣を決めたのである。

水原で軍議

長岡城落城により、同盟軍は日本化沿岸防備陣はそのままにし、長岡及び周辺の諸隊は全軍撤退した。
(1)長岡城
見附方面に退いた諸隊もあるが、殆ど森立峠から栃尾をめざした。
(2)妙見・朝日山
南荷頃、山古志を通り金蔵へ出た。

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(1)には長岡藩軍事総督(家老)河井継之助、会津藩越後口総督一瀬要人らがおり、栃尾から加茂まで退いた。
(2)には桑名藩、会津藩佐川官兵衛らが諸隊を率いていた。

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佐川官兵衛は散り散りになった諸隊の集結を五月二十日(7月9日)半金蔵村で待ち、翌日栃堀に至った。一方、朝日山麓の寺沢に防備陣していた萱野右兵衛率いる一隊は蘭木村に退き、まんじりともせず十九日宿陣。翌日栃尾に向け出立栃堀に二十一日到着している。

〈奥羽列藩同盟、越後へ出立する〉

五月三日(6月22日)越後三国峠、小出島の会津防備陣が西軍に攻略された報せを受けた会津若松城は重臣を米沢城に派遣し援軍の出陣要請を行った。(白河城も奪還されていた)

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米沢藩は奥羽列藩同盟成立に仙台藩と共に尽力した一方の雄藩であった。すでに仙台藩は同盟軍として白河方面に出陣していた。

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一方米沢藩も越後方面の諸藩にも同盟加盟の働きかけは行っていた。

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そんな情勢の中、五月六日(6月25日)越後五藩(新発田、村上、黒川、三根山、村松藩)が新発田城下に集まり、奥羽列藩同盟への加入を決めたのである。長岡藩はすでに四日に会津と同盟を締結していた。それを受けた形となって米沢藩は会津藩の要請もあり、十日前後に米沢城を出陣、否、三日の会津藩の要請を受けてすでに出陣していたかも知れない。(資料がなく定かではないが)五月十六日(7月5日)すでに水原近い笹岡にまで進軍し、水原に入り宿陣しているのである。会津藩士秋月悌次郎らが米沢藩陣営を訪ね、海岸沿線の守備陣へ西軍の攻撃もあり、切迫した情況が生じ新潟に出陣・滞陣している米沢藩兵百人の貸与を懇願し承諾を受けているのである。

米沢藩の思惑と参戦

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米沢藩陣将甘粕継成は、その日新発田城下に向かい面談をしており、新発田藩の出陣を要請したのかも知れない。五月十八日(7月7日)再び水原陣営に戻った甘粕陣将の所へ会津藩家老西郷勇左衛門は庄内藩士らと訪れ越後への出陣・守備等々について軍議を行った。

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一方、庄内藩も奥羽越列藩同盟成った事を受け、自らの藩も西軍の追討の対象になっていながら、五月十一日(6月30日)鶴岡城から出陣し、石原多門陣将が率いる諸隊と共に米沢に入り石原は水原の米沢藩陣営に会津藩と共に十八日の軍議に出席し弥彦、中島への出陣と定まったのである。

水原で軍議

奥羽の一方の雄藩・仙台藩は白河方面に約二千~三千人の藩兵を出陣させ会津藩、二本松藩らと共に西軍と戦っていたが、越後にも援軍を出陣している。

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五月十八日(7月7日)の水原に於いて米沢・庄内・会津藩の出陣・守備陣営を決めそれぞれ出陣する。五月二十二日(7月11日)には、すでに西軍に侵略された長岡城を去り、加茂に集結していた同盟軍に合流した米沢藩も同盟軍の軍議に臨んでいる。席上、同盟軍の総督就任を要請された中条豊前は固く辞退している。

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一方、村松藩も五月十四日(7月3日)出陣し同盟軍に合流している。仙台藩は新潟軍事局守備であったようである。

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会津・青龍三番士中組(木村慎吾隊長)は閏四月に入ってから越後口への出陣となり、水原の安田(保田)に入り、滞陣していたが、五月十五日(7月4日)長岡城切迫となり、援軍の命令が届き出陣、五月十八日(7月7日)加茂に着陣、宿陣となる。この戊辰の年、雨の日が多く、信濃川が増水し洪水を起こし、また信濃川に注ぐ加茂の加茂川も大増水であったという。

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この雨が戦いに大きく影響を与え、双方の軍にとっても大変な事態を受けることにもなる。その一つの例として掲載した。

戊辰の年の大増水

〈同盟軍、加茂に集結する〉

五月十九日(7月8日)長岡城が攻略され同盟軍は長岡から撤退した。榎峠、朝日山方面布陣の諸藩諸隊も撤退した。

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戦いは払暁から開始され、同盟軍の必死の反撃もむなしく攻略され夕刻前には城下になく栃尾をめざした。撤退した諸藩諸隊は難儀しながらそれぞれ皆夜行軍となったようだ。

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会津藩、長岡藩、桑名藩、村松藩も藩ごとに集まって撤退したわけではなく、各方面の諸隊ごとに退いた。
(1)城下=長岡藩、会津、村松、衝鋒隊
(2)妙見=川島億二郎(長岡)佐川官兵衛(会津)山脇十左衛門(桑名)
(3)朝日=(2)に合流、衝鋒隊も
(4)蘭木=萱野右兵衛(会津)
が大体の内容である。

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五月二十日(7月9日)半蔵金、栃堀、栃尾にある程度の諸隊が合流したりして宿陣。

同盟軍加茂に集結

同盟軍加茂に集結

〈米沢藩、来援する〉

五月二十一日(7月10日)長岡、会津、桑名の諸隊が合流する。栃堀村に於いて終結した諸隊で軍議を開き、栃尾は防備に適さず、また同盟軍の本隊は加茂に集結しているとの報に加茂をめざした。奥羽越列藩同盟の米沢藩が加茂に着陣した。長岡藩河井継之助らの本隊も昨日から宿陣中であった。散り散りになった諸隊も次第に集結し市中は同盟軍が充満し再び戦闘の士気が高まっていた。
※掲載の資料は五月二十一日(7月10)から二十三日まで掲載されている。

同盟軍加茂に集結

同盟軍加茂に集結

同盟軍加茂に集結

同盟軍加茂に集結

〈列藩同盟、軍議を開く〉

五月二十二日(7月11日)長岡、朝日山方面の撤退した諸藩諸隊が殆ど加茂に集結した。会津藩越後口総督一瀬要人は各藩、諸隊に呼び掛け、会津本営に於いて列藩同盟の軍議を開いた。しかし、この軍議には会津藩佐川官兵衛、桑名藩山脇十左衛門、長岡藩川島億二郎らは出席していなかった。
(1)守備陣容の人員
(2)兵糧
(3)運送
等々の話し合いが中心であったという。列藩同盟とはいっても強烈な個性、リーダーシップ者がいないのが最大の欠点であった。各藩、各諸隊の思惑があったものと思われる。

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長岡城の戦いに於いて村松藩の動向に対して会津・長岡藩は懐疑的で、その責を強く詰めた。すると突然村松藩用人・田中勘解由は自ら喉に刀を突き差してしまった。その介抱等々でそれ以上の協議はできなかったという。

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五月二十三日(7月12日)再び列藩同盟の各藩、諸隊々長が集まり、米沢藩本陣で軍議を行い具体的な進軍の部署を定めた。
(1)見付口(総勢六百四十) 会津遊撃隊(五十人)木本隊(百人)砲兵隊(六十人)大砲二門、長岡・村松藩(八十人)、米沢藩=先陣(百五十人)後軍(二百人)砲兵隊、大砲二門
(2)与板口(総勢六百四十) 桑名・町田隊(六十人)大砲隊(大砲二門)会津萱野隊(二百)大砲隊(二門)衝鋒隊(二百)上山藩(八十)後軍(米沢=百)
(3)栃尾口(総勢九百八十) 新発田藩?八十、長岡藩(九百)
(4)弥彦口(総勢六百十) 庄内藩(二百五十)会津(二百)村上(百六十)
(5)鹿峠 桑名雷神隊(六十)

と定めた。しかし、五月末には桑名藩は与板へ全軍集結、米沢藩は見附へ全軍集結した。

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この日の夜、西軍は見附へ一隊を進軍、布陣した。

一方、西軍は長岡城を攻略すると本営を転陣し、海道軍、山道軍をそれぞれ進軍させ、海道軍は与板・栃尾・見附へ出陣し守備陣形を敷いていた。五月二十三日の夜には見附に入り先陣を堀溝村に布陣させた。

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それを知った同盟軍は直ちに出陣した。この時、衝鋒隊中軍(今井信郎隊長)会津藩青龍三番士中組(木村慎吾隊長)の諸隊などは三条に宿陣していたり、米沢藩、衝鋒隊本隊などは赤沢峠で西軍と戦っていたのである。

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まず、この見附方面の戦いを追ってみる。

長岡城奪還へ向けての各地の戦い①

同盟軍加茂で軍議

米沢藩

米沢藩

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