会津藩諸隊小千谷へ集結、雪峠の戦い、小出島の戦い

小出島陣屋跡会津戊辰戦争(参-壱)

佐川官兵衛の出陣と三国峠の戦い

 

会津藩諸隊小千谷へ集結

雪峠の戦い、小出島の戦い

〈会津藩、各守備陣営から小千谷へ出陣する〉

閏四月二十二日(6月12日)に越後口総督一瀬要人は小千谷陣屋に入り滞陣していたが、三国峠破れ西軍六日町・松ノ山に侵軍の報に、小千谷は防備に適さないと判断し長岡に向けて退いてしまったようである。

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しかし、各地に宿陣、布陣していた諸隊は小千谷危うしの報に、殆どが防衛せんと出陣を開始した。

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小出島陣屋守備の井深宅右衛門は陣容を厳しく防備陣営を敷いている。

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一方、新発田藩・前藩主溝口直溥を若松城下から護衛役として新発田城下に入って五十野に転陣していた朱雀二番寄合組(土屋総蔵隊長)本隊は、閏四月二十四日(6月14日)小千谷に向けて出陣した。この日は水原陣屋に宿陣、二十五日小須戸へ、ここで加茂新田から出陣した新遊撃隊(坂本平弥隊長)、木村重右衛門一行も入ってきた。茂林寺・了専寺に宿陣する。

小千谷へ出陣

農兵を軍事教練して入広瀬村に宿陣後、小出島に入り、さらに山谷村に出陣していた山内大学隊長らは閏四月二十五日(6月15日)小出島陣屋に帰陣し、守備する。三国峠の敗退によってである。

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一方、飯山の戦いで隊士三分の一を失い弾薬もなくなり酒屋陣屋に退陣していた衝鋒隊は閏四月十二日(6月2日)、再び高田を目指して出陣し妙法寺村で隊を三分化し(前・中・後軍)前軍(今井信郎、桃沢彦次郎)、中軍(内田庄司、木村大作)、後軍(古屋佐久左衛門、楠山兼三郎)は、会津藩、桑名藩の遊軍となり、柏崎・小千谷方面へ出陣、高田は西軍が掌握する所になるとの報によるものであった。田上村に宿陣する。閏四月十三日(6月3日)田上を出陣し三条に宿陣、十四日脇野に出陣、この後小千谷方面に進軍していく。一方、柏崎へ向かった会津藩浮撃隊、衝鋒隊中軍(木村大作・松田昌次郎=会津藩士)の半隊は閏四月十五日(6月5日)柏崎に入り、柏崎陣屋に於いて桑名藩と共に守備陣営を定めている。(後述する鯨波の戦いに詳述)

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閏四月二十三日(6月13日)塚野山(現越路町)に守備陣形をしていた衝鋒隊前軍を桑名藩士山脇重左衛門が訪れ、西軍山道軍の侵出に援軍を依頼してきた。衝鋒隊は直ちに出陣し、山谷村千住口に赴き桑名藩と共に守備に当たった。そこへ小千谷から会津藩山内大学が率いる農兵隊と井深宅右衛門の一隊も到着し、防備陣営は整った。しかし、西軍山道軍は三国峠を攻略すると北上を開始、山道軍のもう一方の一隊は松ノ山に布陣し小千谷をめざしていた。

衝鋒隊

〈会津藩諸隊、小千谷へ向かう〉

閏四月二十四日、水原を出陣した佐川官兵衛が率いる朱雀四番士中組は二十五日(6月15日)明け六ッ(午前六時)に出立し、七ッ時(午後四時過ぎ)に加茂に着陣した。

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一方、津川・赤谷口(新発田城下)から出陣した砲兵隊・青龍隊も進軍し、新津・小須戸へと進み宿陣(二十五日)する。小千谷の急によって皆出陣し、その進軍は速いものであった。

資料=会津戦争史

小千谷陣屋

〈越後方面西軍進路〉

越後方面西軍進路

〈長岡城攻防戦図〉

資料=ツアーの配布もの

越後方面西軍進路

〈長岡周辺戊辰戦争戦死者数〉

資料=会津戦争

長岡周辺戊辰戦争戦死者数

〈会津藩、諸隊の出陣の動勢〉

三国峠が攻略され、小千谷陣屋守備の援護に閏四月二十五日、津川を急ぎ船で下り、新津に宿陣した砲兵隊(市岡守衛隊長)は、翌二十六日(6月16日)見附に着陣すると諸隊の多くが集結していた。市岡は直ちに佐川官兵衛らに面談し「日夜進軍すべし」と建言するも”大事であり夜行の進軍は無理„と佐川らは宿陣するが、市岡に同意した土屋総蔵の隊、新遊撃隊は出陣する。佐川の隊は先鋒隊が大面まで進軍していたが、大雨のため宿陣。そこへ小千谷陣屋からの早馬が到着し、三国峠の敗走を知らされた。

会津藩諸隊の出陣動向

閏四月二十五日(6月15日)三国峠破れりの報に、山谷千住口に守備していた会津藩会津藩衝鋒隊は山谷から平坂、小出島にそれぞれが転陣することになった。

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前項の資料中、諸生隊とあるのは会津藩の諸生組なのか水戸諸生党なのか定かではないが、恐らく会津藩ではないかと推察する。

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一方、会津藩諸隊は三国峠落ちるの報に越後を南下する出陣が相次いでいる。越後の中心に信濃川が流れており、船を利用すれば伝達も比較的早く行われたものと思う。

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会津藩越後口総督一瀬要人(家老)は、四月半ば頃に津川へ入り滞陣していたが、閏四月に入って津川を出陣し、二十日に水原を出陣、加茂に着陣し、桑名藩の飛び領地があり、藩主松平定敬が滞陣していたので拝謁し、二十一日長岡城下、二十二日に小千谷陣屋に入り、供十六名と共に滞陣していた。勿論、郡代奉行篠田兵庫・新国源之丞らは以前から滞在中であった。三国峠敗れりの報にどう対処したのか、資料なく分かっていない。

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水原を閏四月二十五日(6月15日)出陣した砲兵隊二番組の市岡守衛らは翌二十六日加茂に入り佐川官兵衛らと出会い、夜行進軍を建策するが成らず、土屋総蔵の隊と長岡に向かう夜行進軍で出陣した。

長岡へ

閏四月二十五日(6月15日)前掲・前述したほかに諸隊が続々小千谷をめざして出陣しているが

(1)佐川官兵衛率いる朱雀四番士中組は新津から加茂へ

(2)砲兵二番分隊、津川から新津へ

(3)土屋総蔵の隊、水原から小須戸へ

(4)新遊撃隊、加茂新田から小須戸へ

(5)青龍隊(寺田信二郎が率いて)見附を通過し長岡へ

(6)砲兵二番本隊(夜行軍)

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一方、西軍海道軍は高田城下を出陣し、海岸沿線を北上していた。山道軍は二手に分かれ、三国峠を攻略した一隊は三国街道を北上、もう一方(岩村精一郎が率いて)は、小千谷をめざして松ノ山村辺りまで侵軍していた。

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長岡藩は家老河井継之助は武装中立を掲げ、諸藩の武装した藩士の入領を認めず、西軍にも会津藩側にも属さず、長岡藩内の戦闘を許さずの姿勢を貫いていた。しかし、西軍の侵出を迎え、大隊長山本帯刀らを率い摂田屋村の光福寺に本営を置き、厳重に警戒をしたのが閏四月二十六日(6月16日)であった。

資料=会津戦争 痛憤白虎隊と河井継之助

会津藩諸隊小千谷へ終結

〈雪峠の戦い〉

閏四月二十三日、塚野山に布陣していた衝鋒隊前軍は、桑名藩から援軍を求められ小千谷の南方面の山谷村千住口に守備していたが、二十五日三国峠の敗報が届き、小出島と小千谷の中間点に近い南西方面の芋坂に転陣し、西軍の侵軍を防ごうと布陣する。

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閏四月二十六日(6月16日)芋坂に布陣した衝鋒隊前軍は、四方に斥候隊を出した。その夜副隊長桃沢彦次郎(前田兵衛)は雪峠にて西軍・松代藩の斥候隊と遭遇し、銃撃戦となるが勝敗に決着付けんと桃沢彦次郎は自ら白刃を振りかざし斬り込みをかけ、一人を倒し、なおも突き進んでいる。一人を生け捕りにしている。衝鋒隊はさらに追撃する。しかし、深追いしすぎた。真人村近くまで追撃すると本隊が布陣しているのが望見でき芋坂へ戻った。西軍の本隊は山道軍の本隊で薩摩・長州・尾張・大垣藩のほか、信州の諸藩合わせて十二藩の軍勢で六千~八千名といわれる大部隊であったという。

雪峠の戦い

雪峠の戦い

資料=幕末実戦史 衝鋒隊戦史

雪峠の碑

雪峠の戦い

〈小出島の戦い〉

閏四月二十四日、三国峠を攻略した西軍山道軍の一隊は、小千谷をめざして北上し、十日町方面から本隊から派遣された一隊と合流し、六日町などに宿陣し浦佐に入り宿陣。閏四月二十七日(6月18日)西軍は魚野川を渡り、午前六時頃、小出島に攻撃を開始した。

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一方、小出島に布陣する会津藩は二十六日に山内大学の一隊が援軍として夕刻入っていた。井深宅右衛門、町野源之助らの諸隊合わせて百二十余人の守備陣営であった。魚野川と佐梨川を挟んで四日町辺りまで陣形を敷いていた。

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閏四月二十七日(6月17日)卯の刻(午前六時前後)西軍(薩摩・長州・尾張・松代藩=約七百余人)は小出島に攻撃を始めた。二つの川を挟んで砲戦となった。激しい砲銃撃戦となった。しかし、兵力・火力に優る西軍はついに佐梨川を渡河し市中に乱入、凄じい白兵戦が展開された。槍を得意とする会津藩は兵力は少ないが、善戦する。山内大学の農兵も旧式の銃で応戦していた。

小出島の戦い

資料=戊辰落日(上)

資料=戊辰落日(上)

〈小出島陣屋跡〉

小出島陣屋跡

戊辰戦争懐旧碑

戊辰戦争懐旧碑

大龍和尚碑

大龍和尚碑

〈井深宅右衛門の墓〉

青山霊園 2009年6月17日撮影

井深宅右衛門の墓青山霊園

井深宅右衛門の墓青山霊園

井深宅右衛門の墓青山霊園

〈叶津陣屋跡〉

激戦、接戦数刻、戦死傷者も続出し、砲兵隊二番隊の隊長池上武助も負傷、四日町へ散り散りになった諸隊士をまとめ、追撃する西軍を反撃しながら(弾薬も乏しくなっていた)退却する。

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叶津へ撤退したとあるが、午ノ刻(正午)四日町に集結し、撤退してかなりの道のりを敗走した事になる。途中、野宿し翌日に叶津に入ったのかも知れない。

2003年10月28日撮影

叶津陣屋跡

 

小出島の戦いに敗れた会津藩諸隊は八十里越して退却した、町野源之助隊は八十里越の峠にとどまり退却してくる藩士らの指揮をとり、五月四日頃まで宿陣する。その後、山内大学隊と警備(峠=八十里木ノ根峠)を交代し、再び越後に出陣していく。八十里守備となった山内大学隊は田代平に見張所を設け、大白川方面の探索や越後戦線の拡大によって負傷者が会津に送られてくるのを迎えたり、警備を強化していった。また、越後方面の諸隊への弾薬・兵糧等々の管理もあった。井深宅右衛門隊は只見の蒲生村まで退き、薬師寺を本陣とし、守備する。酒屋陣屋守備等々について津川守備の岸源五郎へ書状を送るなどしている。五月十九日(7月8日)長岡城落城し、藩主牧野忠恭・忠訓一行が二十一日八十里から只見に着くと、井深隊が警護につき、隊士数名を会津若松まで同行させた。その後、井深隊も本陣を蒲生に置き、宅右衛門自ら越後に出陣、六月以降、栃尾に陣する。

八十里越に流れる叶津川 2003年10月28日撮影

桑名藩主松平定敬の動向と鯨波の戦いでの桑名藩士立見鑑三郎の活躍

八十里越に流れる叶津川

 

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